近所の古墳に登ってきました [梅吉のいない日常]
我が家の近所にある帝塚山古墳。
普段は施錠されていて入れないのですが地域イベントで公開&登頂出来ると聞いて出かけてきました。
この古墳が作られたのは4世紀末~5世紀初頭とのこと。
この界隈が帝塚山と呼ばれるのはこの古墳の名前が由来だそうですよ。
またこの古墳は大阪五低山の一つでもあります。
(他 茶臼山、聖天山、天保山は登ったことあり)
さぁ!一生懸命に登りますっ!!
標高19.88mを無事に登頂O(≧∇≦)O良い汗かきました(笑)
この古墳は全長88mの前方後円墳。
写真は四角い方墳から円墳方向を見た眺めです。
円墳にどどーんとそびえる碑は1898年に明治天皇が訪れたことを記した駐蹕碑(ちゅうひつひ)で
その左奥の方に見えているのはあべのハルカス。
この古墳は方墳と円墳の高さに数メートルの差があるんだそうですよ。
こちらは円墳から見た方墳の様子。
この古墳に埋葬されていた人物については三つの説があるのだそう。
古くから言われていた大伴金村説は時代が合わないとして現在では却下されていますが
金村ではない大伴一族の一人ではなないかという説。
もう一つは鷲住王(わしずおう)という讃岐を拠点にした
古墳の石棺をつくる技術者集団を率いていた人物ではないかという説。
この鷲住王と讃岐に残る古墳と大阪近辺の古墳の石材の関連性は面白い話だったので
関連する本を探して読んでみたい!
最後の節は浦島太郎ではないかという節。
(よく知られている浦島太郎の御伽噺は「約束を破ったらダメ」を
子供に教える寓話になっているのでここではそのお話は忘れてね(笑))
各地に残る浦島伝説はその土地ごとにモデルがいるのですが
ここでは神功皇后時代から300年に渡って朝廷に仕えた武内宿禰=浦島太郎と考えられているそう。
常識的に考えて300年も生きるはずがないので
子々孫々が長きに渡って朝廷に仕えた竹内一族の一人が埋葬者ではないか?とのこと。
古墳は昭和の初期まで上の写真のように囲いも何もない状態で誰でも入りたい放題。
遺跡の保存や研究が重要視され始めた頃には円筒埴輪が見つかったぐらいで
あとは盗掘によって何も残ってなかったんですって。
よって被葬者は永遠の謎のまま。
古墳の上から海の方向を見ると現在ではこんな景色が見えてます。
(画像は手を加えてあるので実際に見える景色とはちょっと違います。)
遠くに見えるのは六甲の山並み。
大昔の大阪の地形は帝塚山古墳からすぐのところまで海でした。
古墳は難波津に入ってくる船の目印になっていたのかも^^
思いがけずに登山証明証がもらえました。かなり嬉しい(≧艸≦)
日付は自分で書いてね、なラフさです(笑)
*****8年前の梅吉さん*****
(2015年11月8日 撮影)
ひねりの角度、つま先指先、おしっぽの先まで美しく伸びた完成度の高さ!
しょんぼりな気分が続いてご訪問が滞っております。
ごめんなさいね〜><
寒くなってくると猫恋しさがひとしおです;;